昭和57年4月19日 朝
御理解第61節
神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。
人間の見る目と言うのは、なかなか分からないですけれども。神様が見ておられる、聞いておられるという事が一番的確です。それがお互いの信心の上にもおかげになって現われてくるのですが。結局、自分の信心が神様の心に通うと言うか、通じる事はやはり神様の機感にかなわなければ出来ないことでありますから。いつも自分の信心の欠けておるところ、または間違っておるところを正させてもらう。そしてそこから、一歩でも神様の願いが心と言うか、にあの、近づかせて頂くという精進がいつもいると思うです、自分の信心がいつもこれでよいという事はない。
何かの機会にです、ね、確かに自分の真心いっぱいで一生懸命の信心をさせてもらっておる。人に話しを伝えて行きよる。ね。そして、真の信心をさせるのが神へのお礼と言われるから。人にも伝えて行くけれども、なかなかそれが伝わっていかない。どこかこちらの信心の、やはりほんとに神様の機感にかなわないものがあるんだなということになりますよね。神様へのお礼と言われる。ね。やはりここになら、お道の信心によって助かって行くということを神様は願っておられる。そういう例えば神様の思いを言うなら人にも伝えて、信心を、真の信心をさせるのが神へのお礼と言う。そういう信心をいよいよ極めて行きたい。
そういう意味で私は、まあ、今日高柴さんの告別式がここでありますが。人間の見た目と神様の見た目が違うと言うのは、こんなに極端に現われておる人はないようですね。まあ、高柴さんは口の悪い人で、人に言う、そのまあ人に怪我をさせるようなことを平気でまあ言われるというような面から言うと、まあですけども。神様の目からご覧になると、高柴さんのその在り方というものが、機感にかのうておった証拠に、あの人のお導きを受けて信心になるという人が合楽でいくらもあるというのです。
しかも合楽の中心をなしておられるような方達が、高柴さんのお導きによるもんだということですね。だから神様のご覧になるものは、とは違うわけです。今総代の、ながよしさん当たりもそう、田主丸ちがそうです。また、なら大分支部にああして合楽の信心が広がっていっておるのも、元をと言えば高柴さんの信心ですからね。綾部さん達も高柴さんのお導きを受けられた方なんです。ね。久留米あたりもやっぱそうです。もうご自分のご親戚にはもう、皆やっぱお導きが出来ておられます。
ですから、その分からないですよね。もう、25年も前だったでしょうか。伊万里の窯元に、その当時の総代さん方皆一緒に参りました事がありましたが。あちらで私が、こんな大きな皿に、天行地行と2枚の皿に書いて、確かに、天行を永瀬さんでしたかね。それと、地行を高柴さんにあげて。まだ今も、あのあちらへ参りますとそれがちゃんとこう飾ってあります。天行地行という。だからそれは、結局その人には天行がいいのである。その人には地行がよいのであるというふうに、まあ今何十年後になって思うのですけども。その欠けておるところが、私は自分のものになる時にそれが言わば徳になると思うですね 天行頂いた人、今は地行が欠けておる。地行を頂いておる人には天行が欠けておるとまあ頂くべきじゃないかとまあこう思うですね。昨日、ここの阿見宮美子先生が色紙を持ってまりりましてね。何か一筆書いて頂きたいっち言うて持ってきましたから。神様にお願いをして、ここでは、だいたい成り行きを尊ぶとか、土の心とか、ね、いたします。言うならば、あの大地の信心には出来る出来んは別として皆が取り組んでますもんね。成り行きを尊ぶとか、土の心で黙って治めるとかというようなことは皆が、出来、徹底して出来てはいないにしてもやっぱ取り組んでおるんです。
ところがその、天の心に取り組んでおるという人が少ないようですね。ですから、まあ地の修行は言わんでもまあ出来るとして、もうこれから、本気でひとつ天の心を頂く事にしないと。天の行、天行地行が足ろわないとほんとのお徳にもおかげにもならないよと言うて私は、みやすうひらがなで、天の心と書いてやった。地の心はまあ一生懸命取り組んで、まあ出来る出来んは別として取り組んでおるから、これからは天の心に取り組む。天の心と言うのは、もう限りなく美しゅうなる事。まあ天の心とは、うるわしの心とこう言う。しかも無条件の心とこう言う。
これはその、なかなかやっぱ難しいですね。無条件って。昨日もある方が、この頃ご大祭の時に、もう親先生、がふつもちがお好きと言うので、あのふつもちをまあもうそれこそ真心込めて作って、お供えさせて頂いたが、食べて頂いたでしょうかっち。言われますもん。ああ、あんたからじゃったですか、そりゃ思いもせにゃ方からじゃったですね。あの晩は私はご飯がいけなかった。どうしても。そしたらこうしてあの、ふつもちのおいしかするのがきとるからと言うて、持ってきましたから、それで私はご飯を頂き出したんですよ。やあそりゃ、もうほんとに私の真心が通じたと喜ばれたんですけどもね。
だいたいは、ね、あのもう私はなんにいらん。もう喜んでもらいさえすりゃええとこう言うでしょう。だから、その喜んでもらうということも例えば、あの条件の中に入るわけです。私は真心で、もうあの人が喜んでさえもらえりゃと言うて親切をするでしょう。それはもし喜ばれなかったらがっかりせんならん。だからそれは真心じゃないです。本当言うたらだから。まあ昨日のその方は、まあすません。まあ先生にそう喜んで頂いて。まあ私の真心が通じたとこう言われるけれどもね。
本当は、いわゆる真心というものは、いわゆる無条件でなかならければいけない。それは、天の心のようなもんです。ね。もう無条件に与えて与えてやまない。美しい心。そこで合楽では、まあ、成り行きを大事にする。黙って治めると言ったようなことは、これは地行にはいる事でしょうね。地の信心です。ですから、まあそれに取り組んでおりますけれども、天の修行に取り組んでおると言う人が、まあ少ないと思うたから、私は天の心と書いてあげた。私は昨日、研修の時にこの事を話して、合楽の場合ね、合楽で頂く御理解とか、例えばなら、まあ色紙に何か書いてくれというような時でも、これは言うなら、もう実にいつの場合でも神乍らなもんだ。私が頭からひねり出して書いてあげ、私の人情が入ってない。
というのが私その、その宮美子先生の場合もそうでした。私が書いてる。今のいろんなことを御理解して、ね、そして天の心に本気で取り組んで結局美しくならなきゃいけないよというお話をしましたが。実は今朝から、お知らせを頂いたと言うのです。と言うのは、ならこの、イヤリングですかね。こう飾りにつかえる指輪とかそんなものをいろいろこう頂いたお知らせを頂いた。ね。これはどういう事かと言うと、形を美しゅうするもんでしょう。
ね。ですから勿論、言うならば、天行という事は、勿論心を限りなく美しゅうするという事じゃけれども、朝ちゃんと頂いてるわけですね。美しゅうなる。美しゅうなる為にはなら、いろんなお化粧品もいるでしょうし、飾る物もいるわけなんですが。ただ心にイヤリングが、心に指輪が、ね、心に清めて行く、美しゅうして行くというおかげを頂かなければならんことだなあ。この言うなら、私が書いてあげたのも、これは神乍らな事じゃったねと言うてまあ申しました事です。
ね。そういう神乍らな、お互いが日々教えを頂いておるのですから、ね、その本気でそれに取り組ましてもらう。これは今日の場合は、自分がおかげを受けた事を人に伝えてとこういう。伝えておるけれども伝わっていかないとするならば、これはまあちょっとおかしいなとまず思わなきゃならない。そして、自分はなら、地行には取り組んでおるけれども、天行が欠けておると思うたら、ね、その天行にもいよいよ取り組んでみて、天行地行足ろうて、ね、自分自身も徳を受けて行き、人にも伝えて行けるようなおかげをまあ頂きたいと思うんです。
ね。神様は、私に欠けておるものを教えて下さる。まあ合楽の場合は、ね、言うなら、成り行きを尊ぶ、大切にする。まあ合楽の( のように)申します。ところが、天の心。無条件の心。しかも限りなく与えて与えてやまない美しい心。そういう信心にもひとつ本気で取り組んで初めて合楽の信心が天地足ろうた、天行地行になる事になる。ね。そういう欠けておるものを分かるためには、自分の願いがどのようなふうに成就して行っておるかということを思うてみたら分かるわけです。
やあ、これはまだ信心が足りんのじゃというて。ね。まあお参りが出来ない人はお参りをさしてもらうのがいい。また、改まりが足りない人は本気で改まればいい。磨きの足りないなあと思う人は、言うならば、本気で磨く事の手立てを工夫さして頂いたら良いと、まあ言うことになるのじゃないのでしょうかね。どうぞ。 (ゆきこ)